昭和52年08月29日 朝の御理解
御理解 第65節
「日柄方位は見るにおよばぬ。普請作事は使い勝手のよいのがよい家相じゃ。よい日柄というは、空に雲のないほんぞらぬくい、自分に都合のよい日がよい日柄じゃ。いかに暦を見て天赦日じゃと言うても、雨風が強うては、今日は不祥のお天気じゃと言うではないか。日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思え。」
人間が天真爛漫な心になるともう問題が全然問題じゃなくなって来るです。勿論教えを頂いて、はあ成程そうだと思ったらすっとそれに入っていけれる。それははい天真爛漫な人。だから私共が本当に天真爛漫な心の状態にならせて頂く事を信心によってそれを頂いて行く、所謂磨きを掛けて行くというおかげを受たい。もう本当に煩わしい、小さい問題が引っ掛ったりどうか言われたらすぐ顔色が変ったり、又は今言うここにいうそれこそ日柄方位の事でも。
はあ日柄を見らじゃったからじゃなかろうか、方位も見らずにしたからじゃなかろうかという様に引っ掛る。結局自分自身の心の中に天真爛漫というのが無からです。引っ掛らないですね。昨日は竹葉会でしたが、色々お話を聞かせて頂きます中に、稲垣さんと佐田さんがその前日に花畑教会で筑水連合会の信徒会が御座いました。こっからもまあ皆さんおいでられたわけです。そしてもう初めから最後まで合楽、合楽でだったと言う事ですが、宮ノ陣の何とかいいましたね、足の悪い方あ高田さんじゃったね。
高田さんが私あの宮ノ陣の信者で御座いますと言うて、まあ立ってお話をされて、十五分間ずつのお話に、もう初めから最後まで何十回っち合楽教会、合楽教会言われたというんです。私四十五年間宮ノ陣で信心の稽古をしとるばってん、今までの四十五年間な何にもならじゃったっち言わっしゃった。そして合楽にご縁を頂く様になって二年間になるんです。それでいてなら熱心にあの宮ノ陣もやっぱお参りになるんです。
それで朝家内ば宮ノ陣に送って、そして私は合楽にお参りをさせて頂いて、そして合楽にお参りをして二年間になるが、本当に初めて金光様の御信心とはこれだというものに当ったんですから、私は信心はまあ二年と言う事、二年の若い信心と言う事になりますという話をされたそうです。所で皆さんも御承知の様に、この方は実に天真爛漫ですね。あちらで毎年宅祭りがあると。
必ず宮ノ陣の先生を勿論祭主にして、こっから誰か先生を来てくれというて、どげん考えたっちゃですねそげな事が、その言われて障らないこっちの方が気が引けるごたる。してまあ三橋先生はもとが宮ノ陣でおかげ頂いとるとじゃから、三橋先生で良かでっしょうもんっち私が言うたら、いいえ今度は誰じゃったか、竹内先生じゃったかがどうでんこうでん来て頂きたいと言うて、ひとつも障らないお祭りが出来るそうです。
それは高田さん自身のその天真爛漫さが、そういう邪気のないものになって来るのじゃないでしょうかね。所謂障らない訳です。花畑教会の代表であの人は何とか言ったっけね、ここにあの何時も浪花節を連れてきなさると、繁雄さん何ち言いよったの、ありゃ榊原さん花千代さんね。ああそれがあのもうそれこそ自分が入信してから今日までをずうっと話されたそうです。
もう大変苦労をしたけれども、おかげを頂いて大きな家の三軒も持たせて頂く様なおかげを頂いたけれども、結局はそれを全部無くしてしまったとこう言う。してみると今日秋永先生が言われ、その秋永先生というて言われるそうです。合楽の秋永先生が言われる様に今までの信心が間違うておった。本当に先生が言われる様に、成り行きを大切にしていくという生き方こそが神様の働きそのものを大事にする事だから、是が所謂真の信心だ、それが芯にならなければいけんと言われたが。
もう是からは今まで何十年間の信心が、していなかった様な、何にもないものになってしまっておるから、是からは本当な信心を頂きたい。合楽教会とは言わなかったけれども、秋永先生が今日お話になったその、成り行きを大事にして行くと言う事をと言う事だったそうです。所がその成り行きを大事にすると言う事に絞ったと言うたもんだから、今度は先生方がね後から話す時に、こりゃ佐田さんが仰っておられましたけれども。ある先生が言われるのに。
成り行きを大事にするとか、尊ぶとかちゅうなら、ありゃあもう神様でなからにゃあ出来るこっちゃなかって。人間のする信心じゃなかっち言うちゃったそうです。だからもう秋永先生がもう唖然としてね、もう二の口がつながらなかった。話そうと思ったけど話も出来なかったと、こりゃ秋永先生から聞いたじゃない、佐田さんにというて話した。もうあげなん言い方をするなら合楽の信心、おかげを頂いておる事実を話そうと思ったけれども、成り行きを大事にするてんなんてん。
もうそげな信心なね、神様なら出来るばってん人間の出来る信心じゃないっち言わっしゃった。それでも合楽は皆んなここに取り組んどるですよと、もう本当に、あの口も空も開きもされんという様な、その話を秋永先生がしたということを聞かせて頂いて、ほんにそういやあこの頃から御本部の偉い先生が見えて、偉い先生かどうか知らんけれどもやっぱ偉い先生でしょう。
あの見えてから、合楽の話を、まあ聞いて見えて、丁度ビリグイの手紙が、あの参りよる時でしたからそれを、あのこういうおかげを頂きよりますって見せたけれども、それを皆んな手紙だして、バラバラバラっとこうやって、そうやって読まれんでね、あの本当に一通の手紙でも読んだら、それこそ血肉踊るようなね。お道の信者なら、あの内容が書いてあるのに、本当にあの人は残念だと思いましたけれども、はあ是が今の教団の信心じゃろうかという風に思いました。
変わった信心と言うふうな見方をして、まあおる訳ですね。まあ今日の御理解、言うならこの日柄とか方位とか、言うなら最後にあるところの、日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思えと言った様な信心がすんなりと素直に入って来ると言う事は、所謂天真爛漫と言う事を申しましたがね、人間が作った歌舞伎の有名なお芝居に、仙台萩というのがありますよね。
あの政岡という偉い女の人が主君である鶴千代君を暗殺の計画があっておる事を悟って、そしてこのそれこそ米、水に至るまで自分で汲んだり、自分であのまま炊き場というのがありますね。また政岡の段と言った様な所があります。その中に自分の子供であるところの千松にね、今お母さんはこういう苦衷にたってるんだと言う事を、説明してもしそこに出されるものが、毒と見たら試みて死んでくれと言う様な、まあ強欲非道な母親が、又と世界にあろうかというて、あの嘆く所があります。
私は本当に思いますけれども、人間の作ったいうならば思想というか、決まりと言った様な物がです、いかに愚かなものかと言う事が分かります。死ぬるを忠義と言う事は、何時の世からの習わしぞと言った様に最後に政岡をして言わせておりますですね。そしてなら自分というのは、そういう忠義を立てる為に自分の子供も、言うなら主君鶴千代の為に、それをもし毒と見たら試みて死んでくれとこう言う。
それを真面目に受けて、所謂千松がもう切羽詰ってそのお菓子を食べさせなければならない。管領からあの、お見舞いと言うて来ておるそのお菓子ですから、それを目の前で食べさせるとこういう訳です。また鶴千代君もお腹がすいとるもんだから食べたいとこう思う、いう訳です。それを食べさせまいとして、もう切羽詰っておる所に。日頃教育を受けておる千松が走り出て来てから。
そのお菓子が欲しいと言うて、食べて足で蹴散らして、そして自分が苦しみ出しますから、それであの、八汐という悪い女がそれを、あの(かいきん)で、いうならばいぶり殺しをする所が政岡忠義の段。本当に自分の子供を義理とか人情と言う様なものをでっち上げてしまってね、言うならば高い所から低い所へ水が流れる様な、ようなそのスムーズさがない。自分で忠義とはこうだ、義理とはこうだと。
言うならばまあ勿論お芝居は、その義理人情のしがらみを、まあお芝居にしたり小説にしたりする訳で御座いますけれども、そういうなら考え方がもう全然天地の親神様の心に叶わないと言う事です。先日テレビを見よりましたら、あの(ほりご)という名の何か名誉と言った様な意味の事を、アメリカあたりでは、あの捕虜になったらそれはもう名誉な事だそうですね。捕虜になるまでも戦ったとこういうのです。
ところが、日本人の考え方は、もう捕虜になったらもう自決せろと、こんな言うならば軍人として武士としてですね、言わば恥ずかしい事はないんだ、捕らわれの身になるぐらい、もう天地の親神様の心からいうたら、そのように生命を粗末にする事が神の機感に叶うはずがないのです。どっちが本当とは言わんけども、問題は神様の心を心としてという生き方が天真爛漫です。
自分の子供にそれこそ毒なものを、毒と見たなら試みて死んでくれといった様な、本当に強欲非道の範です。そしてそれが最後にはどうかというとです、流石に女の愚にかえるりね、三千世界に自分のような親はないと言うて嘆く所が御座います。それが本当の人間の姿なんです。死ぬると忠義を言う事はいつの世からの習わしかというて、そういう習わしを恨む下りが御座います。
私は例えば信心でもです、真とはとか真心とはと言う様な所をです、そういう稽古でとらえておる人達があるのじゃなかろうかとこう思います。結局まあ支那の思想と申しますかね、儒教から来た言うなら道徳。日本でいう言うなら義理人情。又はその君には忠というその忠義と言った様な、その根本精神というものがです、天地の機感に叶わんのです。ためにそれこそ、人間の命までも鴻毛の軽きに置く事がいかにもそれが偉いような、いわゆる思い込みをさせて来たと言う所にです、間違いがあったんです。
生命というものがそんな鴻毛の軽きにじゃない。それこそ生命ほど尊重しなければならないものはない。神様から頂いておるこの生命を大事にしていく。一日でも長生きのおかげを頂かせて頂くと言う事が神様のお喜びである。それと反対の事を言うそこでなら合楽では、超道徳と言う事を申します。その超道徳であるとか超常識と言った様な所に入ってまいりませんとです、言うなら天真爛漫の心が生まれて来ないです。
先日もあるお母さんが、もう家の嫁御が気の利きまっせんもんじゃから、もう本当よそからいろんなもん貰うけんそのお返しすると言う事を知らん。もう私はもう何もあれも持ちません。金で買うてからお返しをした。あんた馬鹿じゃあるのっち私言わんばっかりに申しました。そりゃ嫁御が言いよるするとがほんなこっちゃろうっち。そこに義理とか人情とかとを持ち出すから礼儀を知らんとこう言う。
向こうではね向こうでは言うならばその余っておるかとか、又まあ喜びなさるとは何か貰おうと思うてやるとじゃ絶対ないのである。だからこちらも又そのお返しを貰おうと思うてやるのじゃない様なもんがあった時、またあげたらええじゃないか。貰うたから返さんならん、是がもう一番間違いです。それをあの義理人情では妙な風にいう。親子三人で毎朝ああして参って見えます。
今日も参って見えております。お夢を頂た。丁度親先生ここの裏の庭園の様な所にね、もうそれこそとてつもない大きなライオンがこうやって横になって寝とる。その周辺に様々な獣のが沢山こう三々五々遊でおるといった様な形です。所がこちらからその鉄砲か矢やらでその獅子をどんどん撃つけれども、その獅子はねもう知らん顔してほけんごつしとる、というお知らせを頂ましたとこう言うのです。
あちらもある教会に御縁を頂いて熱心に信心をしておられたんですけれども、合楽にこうやって毎朝あんな遠方から参って見える訳です。それこそ高田さんじゃないですけれども、合楽に通いだして初めて金光様の御信心が分かりだしたと言われる所じゃないでしょうか。だから私が申しました。そのライオンっていうかその獅子というのは私の事であろうと。それと沢山な獣のというのはあの人間の顔という物はね、必ず何かに似ておるそうです。豚に似ておるとがおるかと思いよったら狐に似ておるとがおる。
あの人はようと見よったら犬のごたるとかキジのごたるとか。私が桃太郎さんで、秋永先生がお猿さん。久富正義先生が犬、久保山先生がキジという様な、あの表現で御理解頂きよる事がありましたが、ようと見るとですね、やっぱ猿の事あるですよ、秋永先生は。本当ですよ、ならあの正義さんばようと見よってんなさい、口元なんかもうそっくり犬と変わらんごたる感じがするです。
久保山先生が知らん方が多いでしょうけれども、本当にやっぱキジのような感じでしたよ。だからねどの人の顔でんじっと見よると、その猫に似たつやら犬に似たつやら、狸に似たるやら色々おるとです。自分で見てみなさい。狸に似とるとやら狐に似とるとやらおりゃせんでしょうか。と言う様にその獣のが炊くさんというのはここの信者みんなだろうと私は思う。
真ん中に雄々として大きく寝とるのは獅子、その私の事じゃろうと。ならそのいわゆる加藤さんでも、色々まあいろんな事をその言う人がある。ここの教会に参って、またあちらへその参ったといった様な事を言う人がある。もうそれがやっぱり心に何時も引っ掛かって、その以前も世話になっておった教会の事も毎日お届けをしてお願いをなさいます。だからそれが引っ掛らんごとならなければダメだと言う事。
まだ○○教会○○教会というて、そのせんで済む様な心に引っ掛らない、それが天真爛漫な心になるとそれが引っ掛らん様になるです。本当な事を本当な事として分かったら、本当な方へ移るのが当然の事なんです。私共の事はもう全教から、言うならば鉄砲やら槍がどんどんやって来よりますよ。けれどもねああもう私はそれを困ったとか痛いとは思わんですね。なら教団発展の為に本当に残念と思う様な事はありますけれども、自分が痛いとは思いません。
例えばその合楽まあ本当に悪名が高いわけですけれども、というのは分からんからなんです。それこそ義理人情で言いよるから悪いごたるけれども、神情を持ってしたら私の生き方が本当だと確信しておりますから、昨日の御理解の中にも申しましたように、どこのどういう素晴らしい宗教家が私に対して、ならまあ挑んで参りましてもです、合楽理念を持って行く限り、私は絶対勝つ自信があると、勝つとか負けるとかじゃないけれども、それを本当に求めて来るなら説得する、言うならば自信を持っておると。
そして合楽理念がどんなに素晴らしいものかという事を分からせ得るものを持っておる。分からんから矢になったり鉄砲になったりして来ておるのであって、そういう働きの中に皆さんはおかげを受けておられる訳であります。だから皆さんとてもです例えばね、今日は日柄方位どころじゃありません。日の吉凶を占うとか言った様なそういう本当に程度の低い迷信をです矢張りそれが引っ掛る様では、今あなたがまだ天真爛漫でない証拠なんだと。家相が良いの悪いのと言う様な事ではない、何時もが天赦日だと。
私共、金光様の御信心をする者は何時もが良い日悪い日は無い。何時もが天赦日であって、日のお照らしなさる日に良い日、良い悪いはないと思わせて頂けると言う事ですけれども。今日はそれを義理とか人情とか、又ちょっと言うならば思想ですね。例えば武士道の思想と言うものがです、矢張り日本人が人間が作った思想であって、ギリギリの所にはです、いかにも忠義を立ててです。
主君の為に一命を鴻毛軽きに置いたというても、本当を言うたら、それこそ人間の愚に返ったら、死ぬるを忠義と言う事は何時の世からの習わしぞと言う様なものが必ずある筈です。ですからそういう言うならば、あの道徳的なとか常識的なと言う事を離れて、超常識であり超道徳。合楽でいわれる合楽理念はそれを説くのです。ただ信心しておっても昨日申します様に、家の嫁御が昨日
(音声途切れる)
お返しもせんと、言う様な事を言う事になって来る訳です。そげなこっちゃあないって。まだこっちに何かあげられる様なもんがあったら、あげたらそれで良いのである。はぁあっちから貰うたからもうそれをお返しせんならん。これがもう一番つまらん義理人情です。与えられたものは一つ与えられとくがよい。そん変り又与えられる時にはさっさと与えられる様な美しい心。それが天真爛漫な心ですよね。
どうぞ。